古典文学作品の中で、蹴鞠という行事がどのような表象的意味を持って描き出されているか検討した。
貴族階級の間で嗜まれた蹴鞠の競技としてのあり方、文学作品を含む多くの文献に見える実態の解明については、渡辺融氏と桑山浩然氏による『蹴鞠の研究 公家毬の成立』(東京大学出版会、一九九四年六月)、村戸弥生氏『遊戯から芸道へ 日本中世における芸能の変容』(玉川大学出版部、二〇〇二年二月)、稲垣弘明氏『中世蹴鞠史の研究 鞠会を中心に』(思文閣出版、二〇〇八年一月)等の著書が上梓されている。古典文学で著名な場面は、『源氏物語』若菜下で柏木が後に密通することとなる光源氏の正妻・女三の宮を垣間見する契機となった六条院の蹴鞠の会が挙げられる。また、『古今著聞集』第十七は蹴鞠の説話九話を収め、平安時代の名手で後世「鞠聖」として神格化された藤原成通に筆を費やしている。蹴鞠を題材とする和歌も多く詠まれ、佐々木孝浩氏による「鞠聖藤原成通影供と飛鳥井家の歌鞠二道」(『国文学研究資料館紀要』20、一九九四年三月)、「蹴鞠を詠む和歌――成通影供歌をめぐって――」(『藝文研究』Vol.95、二〇〇八年十二月)等から、史的展開をうかがえる。氏は「蹴鞠文学の可能性――散佚物語『扇流し』をめぐる臆説」(『藝文研究』Vol.91、二〇〇六年十二月)で『宇津保物語』から始まる現存物語をも含めた蹴鞠と文学との関わりを論じている。
以上のように、数多くの古典文学作品において、蹴鞠の様々な役割が指摘されているが、本発表では『和歌文学大系三十六 新古今和歌集』(明治書院、二〇二五年七月)で担当した飛鳥井雅経歌「なれなれし見しは名残の春ぞともなどしらかはの花のしたかげ」(巻第十六・雑上・新編国歌大観番号一四五六番歌)を中心に考察を行った。歌中に鞠は出て来ないが、詞書が「最勝寺の桜は鞠のかかりにて久しくなりにしを、その木年ふりて風に倒れたるよし聞き侍りしかば、男共に仰せて異木をその跡に移し植ゑさせし時、まづまかりて見侍りければ、数多の年々暮れにし春まで立ち馴れにけることなど思ひ出でて詠み侍りける」と記され、長年蹴鞠をする庭に立っていた桜の老木への感慨が詠まれたことが知られる。蹴鞠の家で活躍した人物の思いが表出されている点に注目して読み解いて行った。先行研究では、彼が仕えた後鳥羽院が蹴鞠に熱心であったことが藤原定家の『明月記』等からでも明らかであり、作者雅経が当時置かれた立場も踏まえながら、分析を進めた。